もうけた命(NMさんの場合)~がん患者の夢と絶え間ない不安

 その後、しばらく落ち着いていたNMさんの腫瘍マーカーは、再びわずかだが上昇し始めた。この時、転移が分かってからすでに5年が過ぎていた。

 こんどの治療薬は、最初に使った飲み薬にしたいとNMさんから申し出た。それは、大した副作用がなく、しかもその治療によって肺の転移がかなり長い間大きくならなかったことを思い出したからだった。主治医も了承した。

 しかし、二度目のこの薬は、今回は全く効果がなかった。薬を飲み続けても、腫瘍マーカーの上昇は、わずかづつではあったが、止まらなかった。実は、この飲み薬は、使い続けるうちに効果がなくなることが、そのあと分かってきた。

 やはり点滴治療が必要だと言う主治医の提案を、再びNMさんは受け入れることにした。NMさんは、点滴治療も可能な限り通院で続けることを望んだ。これも、主治医は了承した。

 入院しないのは、自分でやりたいことを続けるためでる。だから、通院することも自分の仕事だと思い、自分で車を運転して通い続けてきた。がんの手術の後から、それまで家事を手伝ってくれることなどなかった夫が、掃除、洗濯、布団干しなどを代わりにやってくれるようになった。

 抗がん剤の点滴治療を終え疲れきって家に帰った時など、とくにそのありがたさを感じる。この夫の手助けで、NMさんは治療を受けながら自分でやりたいと思うことを続けていられる。これは自分ががんになったためだと思う。自分のがんはゆっくり進むがんだとNMさんは思っている。

 自分は、がんになって10年以上生きた。もうけた10年、もうけた命と思うが、ここまで生きられたならもっと生きられるはずだとも思う。

 がんの治療はつらい。副作用で体調が悪くなった時には、悪いことばかりを考える。悪い夢を見る。「ああ、もう駄目だ」と思って目を覚ましたら生きていたという夢。大きな舞台に立って大勢の人を前になにかを話している自分がいる夢。最後に「自分は生きていたい」と大声で叫んで舞台を降りる。

 先生が大事な話があると自分を呼んでいる夢。「今までのことはぜんぶウソだったよ。がんなんかじゃなかったんだよ」と先生が言う。それが夢じゃなければいいのにと、NMさんは心底から思う。

 主治医が「がんというのはウソだった」と本当に言ってくれたらどれだけありがたいことか。誤診で訴えるどころか、ウソというのが本当だったら、そのためにいくらお金を払っても構わないと思うくらいだ。

 がんの患者は、いつも再発が頭から離れない。どこかが痛めば、そこに転移が起こったかと不安になる。

 咳が続けば肺に転移か、食欲が落ちれば肝臓に転移か、便秘気味になればおなかに転移したかなど、すべての症状を転移再発に結びつけてしまう。

 だれでも生きている以上、体に不具合が起きないことはない。少し無理をしたための筋肉痛。ちょっとした風邪。食べすぎたための胃のもたれ。がん患者は、それらの症状をすべてがんの再発と結び付けてしまうことになるから、きりがない。

 がん患者は、そのように不断の不安にさいなまれている。

 NMさんにも血痰が出たことがあった。NMさんは「肺の転移が悪化したのだろう。私はもうこれで終わり」と暗い面持ちで私の診察室に入って来た。

 肺のレントゲン写真を撮ってみると、肺の転移巣に変わりはなく、のどが真っ赤で声も嗄れていたので、血痰の出た原因はかぜをこじらせたためであることが分かった。それを話すと、NMさんの落ち込んだ顔が、一瞬のうちにいつもの明るい顔に戻った。

 NMさんは、がんになったおかげで、普通に歩いている人を見ても、「もしかすると、この人も心には深い悩みを持っているのかもしれない」と思えるようになったという。がんが再発したおかげでといった方が正しいかもしれない。

 がんになっても、再発するまでは自分のがんは治って当然と考えて診察を受けるだけだった。それが、再発した後は、つねに死を意識して悩まざるを得なくなった。

 しかも、再発と言われても、自分の体には死を間近にしたような異変はなにもない。日常の生活そのものは、今までとまったく同じと言っていい。つまり、悩みは深くても、外見上はまったく普通の人たちと同じだ。

 NMさんの悩みは深まる一方だ。どうして自分だけが自分の死をいつも考えて生きなければならないのか。こんなに普通の体なのに、自分には死が迫っている。NMさんは、それを認めたくなかったし、そのことを信じることもできなかった。

 だから、くやしかったし、情けなかった。少しでもよくなっているという主治医からの言葉を期待して、つらい抗がん剤の治療を続けているのに、その言葉が聞けない。反対に、主治医の口から出るのは、期待した効果がなかったとか数値が悪くなったという言葉だけだ。だから、間違いなく自分には死が迫っていると思える。

 悩みが深まるにつれ、他人は自分の都合で情けをかけてくるだけだと思うことが多くなったという。NMさんの気持ちを本当に理解しているのではないと思えてしまうのだ。

 「最近、姿が見えないんで心配してたんだけど、具合どう?」などという電話がよくかかってくる。NMさんは、元来、行動派だ。だから、NMさんと関わりを持つ人は多い。NMさんにとって治療のための時間が増えると、それまで関わりのあった人たちと疎遠になるため、自然にそういう電話が多くなる。

 NMさんは、自分がひがんでいると思うが、そういう電話には「大きなお世話だ」と感じる。実際になにかを手伝ってくれたわけでも、手を貸してくれたわけでもないのに「心配してた」と言うのは、ただ口先で言い訳をしているだけだと思ってしまう。そんな時には、「そんなに心配かけてしまって悪かったわね」と言い返してやりたくなる。

 NMさんは、健康な人たちは病気で悩む人間を心から考えてくれてなどいやしないと思うことが多くなった。

 NMさんの気持ちは揺れる。

※このブログが本になりました。「がんになって分かったこと~さまざまながんの素顔と元気な患者たち」という書名で、文芸社からの出版です。ネット販売もしています。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック